鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

*

母のこと

   

 私の母は89歳。今は近くの介護施設に入所している。
身体は元気で、いつもニコニコして冗談を言っては職員さんたちを笑わせているが、やはり時間とともに頭の回路が切れていくのがわかる。これで幸せなのだと思う反面、やはり寂しいものがある。

 母は、八女の熊本に近い山間部で8人兄弟の4番目。ずっと女の子が続いていて、次に男の子が授かるようにと、母の名前をアグリと名づけたそうで、その通りに次は男の子が生まれたそうだ。その下に男1人と女2人。
 2番目の男の子は、幼くして病気で亡くなったそうで、昔は現代のように医学も発達しておらず、幼くして病気で亡くなることも多かったようだ。
 6人姉妹は、年頃になると田中さん家の美人姉妹で有名だったとのことだが、確かにどの叔母さんも美人だったと思う。
昭和元年生まれの寅年で、戦前戦中は小さい頃から、家の手伝いで大変だったということをよく聞かされた。
 親父に見初められて結婚したらしい。母がそういうから、そうだと思う(笑)

 親父は若いころは満鉄と言う日本が戦時に中国に作った国策鉄道会社の社員で、そこから徴兵で戦争に行き、南方戦線から10人に1人の生還率で帰国した。憲兵だったのが幸いしたようだが、憲兵と言うと映画やドラマの中では必ず悪者扱いだが、親父を見ていると違和感があった。帰国後は教員の話もあったようだが、お兄さんの方が教師になったため、親父が農業をやることになった。
 親父は、本来農業にはあまり向いてなかったようで、その分、母が苦労したようだ。
私の子供の頃の記憶には、母が祖父祖母と一緒にみかん園を開墾し、遅くまで働いて、その後に休む間もなく食事の支度をして、いつもいつも動いていた姿が残っている。

 親父は、世間の世話役が多く、酒を飲む機会も多かったが、70歳になった時に癌で死んだ。
まだ、弟だけは結婚していなかったので、それが気がかりだったようだが、思うように生きて最後は安らかに逝った。
 母は、その後、近所の皆さんとカラオケやゲートボール、大正琴などを楽しみ、父がやっていた俳句なども勉強していたが、やがてそれらも止めて、毎日欠かさなかった日記も書かなくなった。

 物忘れが多くなり、真夏の日中にも畑に行くようになったので、介護施設に通わせることにして、少しずつ日数を増やした。
やがて、夜間に徘徊するようになり、家内は最後まで家で看ると頑張っていたが、みんなにとっていいことではないと判断して施設に入所させることにした。
 いざ、入所出来るという連絡が来ると、やはり悩んだが、それは正解だった。
話す相手がいることや、適当に運動したり、暑さ寒さにも気を配ってくれる。家では下の世話など遠慮していたことも、職員さんだから遠慮せずに頼める。家では調子のいい時悪い時があったが、それも見られず、以前より明るく元気になった。

 私も家内も、家を空けられない、夜眠れないというようなストレスも取れて、会いに行くのも愛しく思えるようになった。
田舎では、親は施設になど預けてはいけないというような考え方が、まだあるが、最後は看る人、看られる人の両方の幸せや尊厳を考えて一番いい方法を採ればいいと思う。

 - 信念, 社会

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