鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

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少年時代4

      2015/07/30

 高校での休みは、よく家の仕事を手伝わされた。
しかし、長期休みはアルバイトをして金を貯め、その金で旅行に行った。
 高校時代、いつも一緒の親友がいた。彼も家は農家だったが、次男だったので八女工業高校に進学した。
当時、八女工業は男子だけだったが、その年、初めて女子生徒が入ってきた。彼はその彼女を純粋に人として尊敬していた。そういう男だった。
 中学では、彼が剣道部の主将で私が副主将。
もちろん草野球ヤングホープも一緒!
 下校途中で私の高校によく立ち寄り、生徒会室の常連となっていた。
その頃だから、許されたことがたくさんあった。
周りの女の子たちは、私たちがホモではないかと笑っていたほど、一緒に旅をしたり、ある時は、別々に一人旅をしたり。

 3年の夏休みも、前半左官のアルバイトや家屋を取り壊すアルバイトなどやって、彼は山陰へ、私は熊本、鹿児島を経て奄美大島までヒッチハイクをした。
 奄美で、古い地図を見ながら、辿り着いたキャンプ場は、すっかり寂れて無人の海岸になっており、周りは密林の状態だったが、もう暗くなっており、止める車もないのでそのままテントを張った。
 海岸沿いにはマングローブが密集しており、ハブが出るというので、なるべく海の近くにテントを張ったが、寝ていると耳元でチャプチャプ音がするので起きてみると、満潮で耳元まで海水が押し寄せていた。
 奄美では、途中知り合ったおじさんに寄せてもらった家の娘さんに一目ぼれしたが、彼女は既に二十歳を超えた女性だった。あと10年、せめて5年早く生まれていたら。。。。会えていなかったな。
 そういえば、甲子園で語り継がれる松山商業と三沢高校の決勝18回引き分けの試合を、奄美のマングローブの木の下で地元のおじさんのラジオで聞いていた。
 いざ帰ろうとすると台風で帰れなくなり、2日ほど、小学校の用務員室にお世話になったが、金はなく、帰りもヒッチハイクなので始業式には間に合わなかった(笑)

 その親友は、やがて大阪の大手建設会社に就職した。
私は、計画通り、卒業後アメリカに渡るための試験や訓練を経て、卒業の翌年、昭和46年に19歳で渡米した。
アメリカでのメキシカンやインディアンとのハチャメチャな生活は、いつかまた書こうと思う。
 彼との思い出は、話せないことも一杯あるが、帰国後、両親が彼を地元に呼び戻したいと相談してきた。
地元の役場の土木課に空きができたと言う。時間がないと言うから、私は自分のレントゲン写真を撮って、彼の名前で役場の就職応募の書類を提出した。
 彼は、私の身体で無事合格して゜、役場の土木科の技術者として勤務することになった(笑)
私も、帰国後は思わぬ経緯で今の会社勤めとなり、彼とはよく麻雀やゴルフ、酒を一緒に楽しんだ。
 お互い仕事を退いたら、ゆっくりゴルフや旅をしようと言っていた矢先に、50代で仕事中に脳溢血で倒れて、そのままこの世を去った。
 倒れる1時間前に、ゴルフに行く約束をしたばかりだった。

 - 雑記

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