784 進路運アリ
昨日、抗がん剤治療を受けて、想定はしていたが、昨夜も一睡も出来ず、睡眠薬も変えてもらったのだが、頭冴えまくり。こんな時は目をシュぱしゅばさせながらブログを書く。機会ある毎に、思ってもいない人から、ブログ楽しみにしていますと言われると、出来るだけ書いておこうと言う気持ちになる。
私のこれまでの進路は幸運だったと思っている。どちらかと言えば運だけで生きてきたようなもの(笑)。一番最初の進路選びは中学校の時だった。進学校を選ぶのに、3つの選択があった。1つは家業の果樹経営を継ぐのに地元の農業高校に行く。2つ目は担任の勧めで、進学校の八女高校から九大を目指す。勉強はあまりしていない割に、当時九大を目指す模擬試験で、千人以上の中で、確か50位以内には入っていたということで、担任が親父に交渉に来たことがあった。その頃はきっと頭が良かったのだろう(笑)。もう一つが同じ担任の教師が勧めてくれた、学費のかからない防衛大学を目指すというものだった。防大を卒業すれば将官になれる。当時、自衛隊好きだった私は、結構この勧めに心を動かされたが、55年前の当時の状況から、長男は家業を継ぐという縛りから脱することは出来なかった。母は、進学をさせたかったようだった。
結果として八女農業高校の園芸科という果樹栽培を勉強し、卒業後、農業先進国アメリカで1年間その勉強をして帰国した。その後の選択に、すぐ自家の農業に従事するか、暫く世間の飯を食べてみるかの選択で、後者を選択して結果として、今の会社に入社した。そういえば、絵が好きで、デザイナーの道を模索したこともあった。一瞬だけ(笑)。
経理財務として入社して、2年から5年くらいの間に、他社からの勧誘が3社あった。今は、会社もその時の相手も居られないから書ける話。1社目は、今の星野製茶園という製茶販売会社の前身である山口園製茶だった。当時の社長は、今は亡き松崎社長。元々の出身が近くであったことや、遠縁に当たると言われ、会社見学に誘われた。かなりのやり手とは聞いていたが、当時50年近く前に工場中に監視モニターが入っており、社長室から一覧できる。機械も最新のオートメ。素晴らしいと思ったが、今の会社を辞める気にはならなかった。
次が、地元、歩いても行けると言う、同業者の大東缶詰、社長の東氏は温厚で人格者として知られていたが、高齢で、外部から招いた専務が実質経営者で、山口園と同じ姓の松崎専務。ある会社の倒産処理で同じ債権者として出会い、それをきっかけに、誘われて剣道の後に居合道を一緒にやるようになり、話をするたびに同じ北山だから来てほしいと勧誘された。もう1社も同業者で、北島食品と言う会社で、取引は無かったが、同業者として会議などで会うたびに誘われた。
いずれの3社とも、当時は、飛ぶ鳥落とす勢いの会社で、特に山口園は当時製茶生産量日本一を誇っていた。3社とも、自分の力を生かせる会社だと少しは揺れた記憶があるが、入社前ならともかく、同業者に移ると言う裏切り行為は出来なかった。正直、3社のトップに対して、若輩者ながら、何となく信頼感が持てなかった。結果として、山口園は過剰投資と社長の超ワンマン経営が仇となり倒産した。その失敗が、八女で最も成長している星野製茶園の誕生に結びついている。大東缶詰も北島食品も、円高による影響が大きかったのは事実だが、結局はワンマンと放漫経営。時代に合わせた変革が経営者1人ではできなかったこと。北島食品の場合は産地偽装がきっかけだった。
こうして、好条件に惑わされず、倒産する会社に入ることもなく、今の会社で頑張れて、先輩には恵まれなかったかも知れないが、だからこそ教訓を沢山頂いた(笑)。優秀な同僚や真面目な後輩に恵まれて、親父の後は継げなかったが、会社人生を全うすることで、みんなの役に立てたと思っている。
進路を選択する時、直感も大事だが、自分が何を大事にするか。もちろん道の先の将来性を見ることも大事。逆に一度決めてしまったからと言って、それに固執する必要もない。どこからでも、新年と努力があれば、やり直せる。ただし、自分の能力と進路が乖離していないか確認したがいい(笑)。
今度厄介な病気になってしまったが、これは選択したわけでは無い。しかし、このことによって、今後選択を迫られることが増える。それも、選択運があるというなら、思うままに選択していこうと思っている。
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