749 置き土産
12月初めに、癌の治療を始めた時、とにかく桜の花見が出来るまではと言っていたのが、お陰様で花見もできた。本当はもう少しいくつかのグループを招待したかったが、急な手術入院で、それは叶わなかった。ここまで来ると、次は、9月予定の娘の出産まで。更に、次男の結婚式まで。更にはもう一回桜の花をと欲が出てしまう(笑)
ステージ4の癌に於ける、抗がん剤による5年生存率という統計があり、記憶が正しければ、食道癌や前立腺癌、乳癌などは80%、胃癌や大腸癌などは50%などに比べ、膵臓癌の場合、20%以下と極端に低い。それが膵臓癌の特異性でもある。だから極論、平均すれば1年と言うことになるし、運よく17%の中に入れば5年以上生きる可能性もあるということ。ただ、希望は持ちながらも、覚悟は最悪を考えておかねばならない。
そんな現状の中で、何をすべきか、しておくべきかを考える。もちろん家族家庭は一番に、会社の行く末もそうだが、何か私的なもの以外にもと思った中で、以前からカミ様が言っていた「靏家の納骨堂が暗くて冷たい感じがする」と言っていたのを思い出した。一族の墓所だから半私的ともいえる建物。私がまだ小学生の頃に建てられたと記憶している。
納骨堂というものは、殆ど、その集落または地域合同で建造され、その中には、田中家も川島家も鈴木家も、苗字ではなく、地域で集まって作られるのだが、靏家だけが同じ一族だけで先に作られた。私もカミ様も、地区の皆さんと一緒の方が何事につけ良かったと思うが、これだけは先祖代々のこと、簡単には行かない。
なぜ、そうなったのか。その発端は江戸時代まで遡る。私の住所は本籍共に、八女市立花町北山というが、八女市は10年前の平成の大合併で、旧八女市や立花町など、1市3町2村が合併して出来た。その1つの立花町は、北山・白木・光友・辺春の4村が合併して出来た。そして更に遡れば、北山村は、私の以前の住所である大字北山字小路の小路と言う集落。この小路は戦後に改名されたもので、それまでは江戸時代以来、私が小学生の頃、つまり立花町合併の頃まで、北田という名称だった。その米作農家主体の北田村と、参勤交代で宿場町として栄えた山下村が一緒になったのが北山村の起こり。八女市に限らず、全国大小の都市が、そういう市町村の合併を繰り返しながら現在に至っており、歴史ある地名が消えている。
その北田村は今の立花町でも、広い田畑を有する裕福な村で、その一帯の大半を所有するのが靏一族だったらしい。今は、次代と共に田畑や食料の価値観も様変わりし、この集落にそんな面影はないが、その建立当時は、まだ勢いがあり、そんな歴史の流れを引き継いで、靏一族が独立した納骨堂を持つことになったらしい。今では家が途絶えたり市外に流出したりして、残る靏家は僅か11世帯となった。とは言え、先祖一族の魂が眠る場所だから、我々もいずれ、そこに納まるし、生きている間は守っていかねばならない。そこで、眠る人々も安らかに、お参りに来る人も、いつでも来たくなるように、それなりの厳粛さも保ちながら、外観も明るく、内部は更に華やかな内装にしたいと決意した。ただ、こういう工事は、それなりの費用が掛かるので、全世帯の同意や予算などが必要で、なかなか纏まらない。そこで、私の置き土産として、私の感覚で、費用も全額、私の出来る範囲でやらせてもらうことで全世帯の同意を得た。このような病気でなければ、生意気な売名行為みたいに思われてしまうかも知れないが、事情が事情だけに一切任せてもらうことになった。
4月5日の靏家先祖供養の際、カミ様に私の意向を伝え、全員異議無しの連絡を受けると、早速、私の構想を実現するために、旧知の大工さん、左官さん、装飾屋さんに連絡を取り、打ち合わせをする段取りを、病室の中から済ませた。他にすることも無かったから(笑)
死んでしまえば、納骨堂の室内なんか死人に分かる筈がない。人は焼かれ骨が残るだけ。確かにそうだ。しかし、死ぬ前に、自分の遺骨が、どんな所に納まるかは分かり、それが冷たく感じる部屋か、暖かく感じる部屋を知ることは出来る。それ以上に、家族親族が小さい子供でも連れてお参りするのに、明るい暖かく感じる部屋がいいに越したことはない。内面装飾には、デザインは私が考え、それをトラックなどにシール印刷する業者を頼むことにした。今回の仕事が上手く行けば、業者も、トラックだけでなく、新たな開拓先が広がるかも知れない(笑)
後、体力が戻れば、他にもやっておきたい奉仕作業はあるが、それは回復度次第としか言えない。
昨夜も朝まで眠れない。なぜか頭が冴えまくり、寝なければ抵抗力がつかないと思うが、やはり、何日も昼間の運動をしていないからだろう。これも1つ解決すると全てが比例して改善するのだが、眠りたくても、眠れないのもきついが、眠れるのに眠れないのも結構辛い。ただ、今日は料理屋の女将が遊びに来てくれたが、やはり、飲食業はどこも大変のようだ。眠れないなんて贅沢言っていられない。みんなが辛い思い出休業している中にも、若い経営者のスナックは営業を続けているという。言い分はあるにしても、こんな最中に、まだアメリカやヨーロッパに旅行に行ったりする若者もいる。この僅かな若者のために、「今どきの若者は」とみんなが言われてしまう。そこだけは考えて欲しいものだ。
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