杣人伝 その2
「忍び」俗にいう忍者の起源は、大和朝廷時代にまで遡るが、神社仏閣を建造するのに必要な木材の産地であった甲賀や、伊賀で働いた「きこり」の集団が、その木渡りや、伐採、搬送の技を磨くために鍛錬したことが始まりと言われ、それが戦国の時代に自己防衛の技となり、やがては武家社会に戦力として利用されるようになっていった。
先んじて、戦力または戦法として、この忍者集団を活用したのは、古くは南北朝時代に武勇を馳せた楠木正成(くすのきまさしげ)で、「きこり」から発展した技に、戦法として必要な、偵察や伝達術、潜伏術などの技法を加えて、楠木流忍術というものを作り上げた。
その中で、よく忍者物のテレビなどで見られる、水団(すいとん)の術や火炎の術が本当にあったかどうかは別にしても、極限まで心身を鍛えることにより、俊敏に動き、暗闇にも適応し、目眩ましなどで相手を攪乱させるのが彼らの戦法であり、武士の様に正面から名乗り合って戦うというものではなかった。
楠木流の後にも、各地で、このような忍びの技法が生み出されているが、主なものに滋賀の甲賀流、三重の伊賀流、長野の戸隠れ流、愛知の松葉流、和歌山の根来(ねごろ)流などがよく知られるところで、その他にも、風馬流、武田流、黒田流など、やはりいずれも「きこり」集団の技に、武家の都合に合わせて、武士の戦法を組み込んだものだ。
この中で、最大の集団は甲賀、伊賀衆であり、楠木正成の楠木流忍法も、元はと言えば、この伊賀者に楠木流武術を教え込んだものと言われている。
朝廷の番人であった武士が、平清盛の台頭で歴史の表舞台に立ち、源頼朝が、武士が政事を行う鎌倉幕府を築き上げ、やがて朝廷は武家の介入を受けるようになっていった。
鎌倉幕府の末期には、その武家の介入で天皇家が南北二つに分かれ、その覇権を争う、後に言う「南北朝時代」に突入した。
楠木正成は、この戦いにおいて、正統本流である後醍醐天皇に味方したが、奮戦の末、北朝を奉った足利尊氏に敗れることとなった。
南朝の敗北色が濃くなった頃、正成は後醍醐天皇の意を受けて、配下の忍びの元締めに、特に優れた十名の忍びを選び、九州の菊池において尊氏の幕府軍との戦いで苦戦が伝えられている征西府の大将で、まだ年若い後征西将軍良成親王のもとに走らせるよう命じた。
正成の指示は、聞き伝えのように負け戦なら将軍に加勢をし、また、勝ち戦であれば、引き返して戦況を報告せよとのものだったが、今の様な整備された道は無く、彼らの足で昼夜駆けても、京から九州までは数日を要した。
一団が菊池の本陣にたどり着いたのは、将軍は既に菊池一族と共に矢部の山中に落ち延びた後だった。
この忍者集団が、再び正成の元に帰ることはなく、後を追って矢部に向かったとか、後に黒田流の始祖になったという伝えもあるが、黒田流忍者は黒田藩、つまり今の福岡県北部で仕えたことから考えると、八女は県南に位置することから、どちらかと言えば、八女に隣接する佐賀県南部の葉隠流忍法の起源に関与した可能性の方が強いと思われる。
とにかく、その忍びの一団が、その後どのようになったかは記録も無く、消息は不明だが、後征西将軍良成親王の御陵は、村人に護られ、遺品である「金烏の御旗」と共に、今も奥八女・矢部村に現存し、宮内庁の管理下にある。
やがて、戦国時代を経て、徳川幕府が樹立し、安定期に入ると、家康以来重宝されてきた忍者も、本来の武士ではないことから、次第に疎んじられるようになり、得体の知れないものと見られ、武家社会から排除すべきと言う気運が広がっていった。
最大流派の伊賀忍群を束ねていた藤林長門守(ながとのかみ)は、その気運を察知し、忍者の術を絶やすことを惜しみ、数百名の忍群の中から、最も優れた男女各々十数名を選び抜いた。
そして、先祖より伝わる、九州の筑後に伊賀の末裔が住み着いたとされる隠れ集落に逃れるよう指示し、残った配下の集団を、伊賀と山を隔てた甲賀の六集落に分散させ、百姓やきこりなどに帰属させ、伊賀の集落は跡形なく焼き払った。
忍者と言う存在は、この時期を最後に世間から姿を消し、近年になって映画や漫画、小説などに黒装束で身をまとった「忍者」が出てくるまで、江戸時代後期から明治大正、昭和の初期まで、全く忘れられた存在だった。
その後、昭和初期の日本が、中国大陸に進出する時期において、スパイまたは諜報特務機関のように、その昔、忍者が担っていた役目と同じように、陰で活躍する存在が生まれたが、情報収集という目的は同じでも、やはり、過去の忍者とはその鍛錬方法や、技術や使命なども異質で程遠いものだった。
兎にも角にも、忍者と言われた存在は途絶えたものと思われていた。
第二章につづく
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