鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

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米寿の祝い

   

 昨日は、叔父の米寿88歳のお祝いだった。
叔父の兄弟で参加できるのは、末っ子の叔母だけだった。
 私の母が、叔父のすぐ上の姉なのだが、施設の方針でインフルエンザ予防のため外出禁止となっている。
甥や姪など約50人が参加して、にぎやかなお祝いだった。
 叔父は、10歳で母を亡くし、その後、父の為に後妻を探して娶らせ、叔父が25歳の時、叔父の父も亡くした。
私は、生まれて間もなかったようで、祖父のことは覚えていない。
 義母は、瀬高の大庄屋の娘で学校の先生だったらしいが、あまり身体は強くなく、私が小学生になる前に亡くなった。

 人の世話に労苦を惜しまず、本当に地域の皆さんから慕われた。
地元の嫁不足に、自費でベトナムに出かけて嫁さがしをしたり、地元の神社の再建に尽力したり、政治でも議員を出すのに責任者として何人かを送り出した。
 とくに兄弟親族のことに関しては、面倒見が半端じゃなく、甥が窮地に陥れば暴力団とも向き合ったり、金銭の援助をしてやるなど、実の息子も飽きれるくらいだった。
 今でも、シャキッとして話にも澱みがない。政治や日本の将来の話になると力が入る(笑)
事故も多かった。しかし不死身の元記さんと言われるほど復活力が強く、いつも弱音を吐かないのには驚かされた。
 息子は事業をやっているが、自分は農業を絶やしてはいけないと、80歳になっても農地を広げていた。

私達、甥や姪は、子供の頃は、正月と盆には必ず、母の実家である叔父の家に押しかけた。
 毎年20家族くらいの客になり、子供たちは家の中を走り回り、襖や障子に穴をあけるが、いつも「よかよか」と受け入れてくれた。女性連中が総出で支度をする。親父たちはひたすら飲む。
 因みに、4人女の子が続いたために、4番目の母が言い伝えで「アグリ」と名付けられ、叔父が生まれたのだと言う。
その後また2人とも女だった。
 
 今回のお祝いの席を見て、今までの叔父の生き方そのものだと思った。
甥の中には、悪さが過ぎて、叔父の家に預けられて育った者もいる。
 できれば、私もそんな人生を送りたいと思うが、あそこまで人の世話をする自信はない。
生き方だけは見習いたいと思っている。

 - 社会, 雑記

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