鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

*

アメリカ物語3

   

 土曜の夜と日曜の朝は、麓にある教会に通った。
目的は、友達作りと英会話を覚えるため。
 小さな教会の皆さんは、すぐに受け入れてくれて、特に牧師と牧師の奥さんには可愛がってもらった。
彼女の名前はシャロンと言って、私は帰国後に開いた喫茶店の名前をシャロンと名付けた。
まだ、10代だったから、向こうでは高校生くらいの感覚だろう。
 みんなは、しげきという名前が発音し難いのか、私のことをシュガーと呼んでいた。オースイーツネイム!!
簡単な洗礼を受けて、聖書を頂き、時々前で話をするが、皆さんに通じたかどうか。
みんなで、クリスマスを祝ったり、ピクニックに行ったり、しかし、その内容は日本のそれと違い、慎ましいものだった。
 やがて、牧師夫婦は転勤して遠くの町に行き、その教会が年配が殆どだったこともあり、勧められて、近くにある少し大きな教会に通うことになった。
牧師夫婦は、その後も手紙をくれ、帰国後も暫くは手紙のやり取りをしていた。子供が出来たことも知らせてくれた。
 新しい協会は、確かに人も多く、子供たちも多かった。
ある牧場主に誘われて、若い連中が集まるから遊びに来いというので、これはもしかして彼女でもと期待して行ったが、みんな小学生だった。やったのは椅子取りゲーム(笑)
 でも、その家族とはその後も交流は続き、帰ってからも手紙のやり取りを続けていたが、ご主人が病気で亡くなくなったと手紙がきた後は家族とも音信不通となった。
 数年後に再度アメリカに行き、その家にも寄ってみたが、別な人が住み、家族は遠くの町に移住したとのことだった。

 テメキュラの町は、本当に小さな田舎町で、警察もまだ西部劇そのままの保安官で、馬に乗っていた。
インディアン居留地も近く、インディアン由来の土産物を売ってるような、例えば保養地のような地区と、西部劇に出てくるような昔からの地区からなっており、町はずれには、少しずつ別荘みたいなのが建ち始めていた。
 近くの町は、フォーブロック・エスコンディド・サンディエゴなど、殆どが旧メキシコの名前のままだった。
 
 私は、日本からアメリカに行った研修生の中でも、かなりの問題児だった。
紙は長髪で、みんなからミスター平凡と呼ばれ、禁止されていることは殆どやった。
 一人になったのをいいことに、まず禁止されたバイクを買った。新聞のセール面に出ていた相手に電話すると相手は高校生で確か、当時の2万円くらいだったと思う。
 少し離れた何とかバレーというキャンプ場に、山岳バイクの練習場があり、そこでバイクの崖登りに挑戦して、崖からバイクごと転落し、バイクは再起不能になった。
 そのキャンプ場では、森林警備隊の若い連中と仲良くなり、一緒に酒飲んで、銃を撃たせてもらったり、かなりハチャメチャ。

 バイクがダメになると、また新聞広告を見て、車を買った。サンダーバードという大型車で、5万円!
さすがに、窓が開いたままとか、塗装が剥げていたりしたが、オーシャンサイドの海まで魚釣りに行ったり、荒野を駆け廻ったり結構活躍して、帰る前にはついに動かなくなった。
 
 農場では、メキシカンを20人ほど使っていたが、ほとんど密入国で、日曜なんかに出かけて帰ってくると誰もいない!
ボーダーパトロールが来て、強制送還だ。でも、暫くするとまた違う密入国の連中が来ている。その繰り返しだった。
 私は、よく休みの日に、岩山にガラガラ蛇を採りに行った。命がけだが、ガラガラ蛇のしっぽを集めるのにハマっていた。
いかにも居そうな岩をどけると、とぐろ巻いているので、飛び掛かる前に、鍬の長いやつで首をはねるのがコツだ(笑)
 ある日、ヘビ狩りの帰りに、山を下りてくるとボーダーパトロールに保護された。
色は真っ黒になっていて、当時メキシカンに似ていたから、山を越えて密入国をしてきたと思われたらしい。
 日本人だと言ったが、パスポートも何も所持していなかったので、事務所に連行されて、後でボスに釈放してもらった。
メキシカンの友達もでき、家に招いてくれて、初めてタコスというものを食べた。
インディアンのパーティに行ったり、密入国しようとして捕まったり。。。。楽しい思い出だ。(つづく)

 - 雑記

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