鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

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少年時代3

      2015/07/30

 高校になれば、少年時代とは言わないかな、青少年時代。
八女農業高校園芸科に入学した。本当は演芸科に入学した方がよかったもしれない。
 八女地区では、一番歴史の古い高校で、親父も先輩だが、親父の時代には、九州は元より、日本が統治していた台湾や朝鮮からの生徒も結構来ていたらしく、親父のアルバムには台湾、朝鮮、満州などの本籍の生徒名がある。

 当時は、筑後地区の農家の長男と、花嫁修業目的の女子高生のための高校の色合いが強い学校だった。
みんな、大学に進学する者はおらず、一般的な高校の授業に加えて、農業の勉強があり、園地での実習もある。
のどかで、どうして遊ぶかを考えるばかり。大らかな学校生活だった。
 ただ、入学当時は優秀なやつが多く、私のクラスには中学で生徒会長をしていたというやつが5人もいた。
地区の高校入試でも、トップは八女農生だったと、入学式の時に校長が自慢げに話したのを思い出す。
 今でも、地元で頑張っている市長やJA八女の組合長、市会議員など、優秀な同級生や先輩は多い。
しかし、勉強はそれまで!だから、そこそこ頑張っている人は多いが、全国レベルや世界に著名な人は聞いたことがない。

私は、中学に引き続き、剣道部に入部した。
 部活では、学校が街中だったので、合宿が終わると、みんなで走って銭湯に行ったり、陰金田蒸に悩ませられ、みんなで薬塗ってはひりひりするので、うちわで煽ぎ合ったり、結構楽しかったが、2年の終わり頃からは、学校の世話役であまり部活にも出られなくなった。
 学校帰りには、途中の食堂の奥の部屋で、仲間とタバコ吸って買えるのが日課だったが、卒業とともに禁煙した(笑)
その仲間と、部活の他に、野球チームを結成して、部活が終わってから練習した。
 当時、草野球が盛んで、先輩たちが結構強いチームを作っていたので、その後輩と言うことで、ヤングホープというチーム名だったが、私はそれほど野球は上手くなかったように思う。フライが上手く取れなかった。

 私は、運よく小中学校でいい恩師に巡り合えたと思う。
お二人とも亡くなられたが、特に、中学の恩師は今でも尊敬している。
 ただ、高校では、当時、日教組が出来て、組合員と非組合員の争いから、当時の担任は学校を去り、私たちは卒業を前に置き去られた形となってしまった。
 当時の私は、一面では優等生なのに、一面ではワルガキどもの中心的な存在になって、他のクラスの先生にまで、よく叱られ、よく殴られた。
 ある騒動では、他校の生徒も合わせて、数人が停学や退学処分となり、恩師に「あいつらは、お前の身代わりになってくれたようなものだから、ちゃんと謝っておけ」と言われて、退学したのは殆ど他校の生徒だったので訪ね歩いた。
 みんな、退学の後、行きつけのパチンコ屋などに就職していて、「あんたには関係ないよ、俺にはこの方が向いていたから」と笑ってくれた。(つづく)

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