656 当たり前
洗濯機や冷蔵庫、水道や炊飯器。今は、あって当たり前の物。電灯がない家庭なんて我が国には無いだろう。その昔は、焚き木から蝋燭、そしてランプ。わざとそう言う生活を送っていない限りは、電灯もテレビもある。
自動車に電車バス、飛行機、米や缶詰、冷凍食品。コピー機やパソコン、スマホ。私達は、全てが有る前提で生活している。これらが無かったら、どんな生活をしているだろう。その有難みは、無くなってみないと分からない。砂漠に行けば当然、水の有り難さが分かるし、電池が切れれば携帯電話の在り難さがわかる。橋の無かった川に橋が出来、遠回りの道にトンネルが出来れば、みんな有難いと思う。私などは、海外に行くと、日本で普及しているウォシュレットトイレの有難さを感じる。しかし、普段の生活では、普段に使っているものに対して、なかなか有難さを感じていないものだ。
全ては、発明して、それを形にしてくれた人々のお陰である。こんなに重宝しているのに、それらを発明した人や会社の名前を案外知らない。発明してくれなくても、作ってくれなくても良かったものも、中にはある(笑) しかし、そんな無駄なものからも、応用されて人に役立つものが作られていることも多い。
当たり前で、有難さを感じていないものは、物だけではない。自分の身体が当たり前だということも、大いに有難いことだし、親兄弟や恩師友人がいることも有難い。ましてや、元々他人だった奥さんが、毎日の食事を作ってくれたり、洗濯をしてくれるのも当たり前と思っているかも知れないが、何に増して有難いことなのだ。それが逆だとすれば、それに耐えうる心身が備わっていることに感謝すべきだろう(笑)。
自然界にも有難さは満ちている。樹々が空気を浄化したり、太陽が明るさをもたらし、夜の闇が睡眠を与え、一日の疲れを癒してくれる。川や海が、魚介類を育ててくれて、地中から燃料が採れる。その有難さを忘れて、人間の利己主義で開発をするから、災害が起きる。そんな気がする。
昨日、納屋の片付けをしていたら、奥の方から、母が施設に入所する前まで漬け込んでいた漬物樽が出てきた。もう10年以上眠っていたことになる。貴重な漬物だけど、流石に食べるのは躊躇いがあり処分したが、これも、昔は食卓に出てきて当たり前のものだった。その母がお世話になっている介護施設も、現代社会において有難い存在の一つだ。
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