鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

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尊厳死

      2017/05/06

 今日、実母と義母がお世話になっている両方の介護施設を回った。
連休で、息子夫婦が福岡から帰ってきて、久しぶりに孫の顔を見せてあげようということになった。
 私の実母は92歳で、痴ほうが入っているが、まだ身体は元気で、義母の方は少し若いが寝たきり状態。
 介護施設では、寝たきりで、意思の疎通もできなかったり、身体を動かせず、養分は管で体の中に補給をしたりという人が少なくない。
 そういう人を見ると、可愛そうだと思うし、家族も大変、世話をする介護士さんも大変だ。
まだ、見舞いに来れるような家族のいる人はいいが、老人の2人暮らしで、一人が寝たきりになったら、経済的にも大変だが、見舞いに行くことさえもできない。
 これから、そういうケースが増える。

 そんな時、尊厳死と言うものを真剣に考えてもいいのではないかと思う。
人は生きる権利もあるが、人だからこそ、人らしく死ぬ権利もあるのではないかと。
 私は、自分で物事を考えることが出来ず、身体も動かすことが出来ないとしたら、生きているのは、喜びではなく苦だと思う。
 その苦さえもわからない、俗にいう植物人間。それも十分に生きてきた80歳過ぎであったとしたら、自ら死を選びたい。
 ただ、死ぬことさえ意思表示できない、死ぬ行動もできなくなった状態になったとしたら。。。
だからこそ、自分でまだ判断できる時に死にたいと思う。
 おそらく、これは口に出さない、行動に移せないだけで、みんな願っていることではないだろうか。
生きる屍のようになって、家族に負担をかけ、国の重荷になってまで生きたくはないはずだ。

 それまで、家族の為に働き、いい父母、いい祖父母、社会でも立派な人だと言われて、最後にすべての人格を貶めてしまう。
私は、人間であるからこそ、タブーとされている尊厳死というものを、人権として、もう一度検討すべきだと思う。
 死ぬ人にとっても、周りの人にとっても、それがいいことだと分かっているのに、それを口に出すと、優しくない非道徳な人だと思われるのを恐れている。

 もしも、私が私の意志で死ぬ時期を逃したら、どんな状態になっても、家族や社会は生かし続けるだろう。そのためには、事前に正式な意思表示をしておく必要がある。
 それは、これから尊厳死を考えることになってから考えなければならない手続きの問題。
自殺と言えば、生活に困った挙句とか、過ちや悪事の末とかいう、悪いイメージが根付いているが、幸せの中でも、今が幸せだからこそ自分で決めた時に、自ら命を絶つということもあり得るのだ。人生を、一生懸命生きたからこそ、そうしたいのだと思う。
 

 - 信念, 社会

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